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zoom RSS 西便制〜「風の丘を越えて」に寄せて        2003、10、3

<<   作成日時 : 2005/11/11 19:59   >>

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ソリ(唄)をのせる声に
恨をうえつけるために
育ての親で師匠の男は
娘の目をつぶした

確かにパンソリの名手の声は
たくさんの人々の絶叫を
一人に集めたような
うなりを出せる
でも
それを
娘の目をつぶして
作り出すってのは
許されることなのか?

師匠には弟子の限界が分かり
限界までいった先には
身体の破壊しかないと思ったのか

見えないものを必死で追い求め
閉ざされた視覚の暗闇のスクリーンに  
結晶化されたイメージを写し出すということなのか

人間には 一生消えないトラウマに対して
挑戦していくような業があるが
心に負わせる傷ではなく
身体に傷を負わせて
それを「恨」と呼び変えると

「恨」がねじれて
かすれて
声の中に
うなっていくのが
人々の心を打つのだろうか

でも ほんとに そんなことをして
いいのだろうか?
芸術って
こんなことまでして作らなければならないものなのか?
そうやって作った声を
聞いて嬉しがっている私たちって何なんだろう?

朝鮮民族に日本が強いていた苦難の歴史
秀吉の頃から傷つけ続けられた人々の悲しみを もし
目を閉ざされた娘の声が 響かせ語るとすれば
何かと何かが同列になってしまうってことはないのか?

それは 「父」なるものの 強圧 
従順の美徳のもとで 分を尽くす女性の受難

ソリの中で語られる物語自体が
女性の献身の物語であって       
これで感動してしまった私は一体何なのか?
それが ほんとに おもしろいのか?

師匠は親だけど親でなくて
弟子は親のコントロールの対象でまた
鳴らされるべき楽器である 娘

一人の芸術を生み出すために
非情な仕打ちが必要だというのなら

見えなかった私と見せなかった男の
恨みと愛情の関係
そして見えないところであがきながら
見えないものを見つめ続けた私の詩を
ソリと呼んでもらっても
またさしつかえはあるまい

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