『先祖の祟りと御願』と『神と村』を読んで2001、3、19

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なされたことの裏に原因がある    

子どもの抱える悩みの陰に
親の背負ってきたゆがみがある

沖縄では、家族のしてきたことが
子どもの世代に影響し
親のひながたのような人生を
子どもが歩んでしまうことを
チヂウリ(継降り)と言うそうだ

そこで、おかあさんは家族のために
朝から祖先たちに家族の無事をお願いし
夕方にもその一人一人の様子を報告して
祖先の加護を求めるという

それをサボると「ウガンブスク(御願不足)」となって
家族の中に不和が生じたり、事故に遭ったり
具合悪くなってくるのだそうだ

仲松さんの著書『神と村』によると
祖先神は彼らにとって
「クサテ(腰当て)神」であって
祖先神を祭る行事は一族のものが集まって盛大に祝う
そして祖先たちは現世の人々を愛し守る
「オソイ」をおこなうのだそうだ。 

祖先神といったって
怖いから尊重しなければならないというわけではなくて
親が子を愛しむ自然な感情から
自分達を見守ってくれていると感じるのが
沖縄の民間信仰なのだそうだ

「狗神信仰」のようないじわるな血の呪縛とはだいぶ違うな     

これは私の仮説だが
たぶん差別的な家系観のはじめには
周囲の人々の「妬み」や「うらやましさ」があったのだろう

一つの家や村で
いいことが起こりすぎてもわるいことが起こりすぎても
人間関係は崩れる    
足りないものを奪い合う中で
自然にできていたバランスが
奇妙な出来事で崩れてしまい     
相対的に不平等を感じているうちに
「妬み」の気持ちが生まれてくるのだろう

兄弟の中の陰日向
むらの中の運不運

そこに合理的な理由が見つからない時
「前世代からひきついだ呪わしい血」などという言葉が
表に出てきて
「妬み」の感情が正当化されていく

「白昼夢」は ある
ものにつかれることも ある
でもそれはたぶん かかえこんだ飢餓感を
埋めるための 誰かへの問いかけが原因だ
いないものに対して 責任を問い
真相を語らせたいと思っているうちに
実態のないものとの対話が始まる

宗教の多くが 
「神」だの「仏」だのを想定して
人間の本源と、死んだ後の行き先について
わからないことを適当に講釈しようとするのは
人間の持つ飢餓感を埋めるためであるし
その存在の不安定さを緩和する方便である

精神の安定という意味で
「御願」にはそれなりの意味があるし
先祖信仰にも意味があるだろう
生き死にの交替という
生命のサイクルの中に落ち着いて入っていくのも悪くない

だけど無教養で
歴史認識の持てない人間に
観念論や神秘主義はあぶない

人間のつくる「差別」に、超自然的な理屈をつけて
正当化されてはたまらない
「差別」の心理に見え隠れするいろんな利害関係を
一つ一つたどって
誰の都合で差別が起きているかと考え
いわれなき差別で人がどれほど傷つくかをよく知れば
そういう心根の貧しい人間にならなくてすむ     

だから差別を正当化する信仰の穴ぼこに
足を取られないようにくれぐれも気をつけよう

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この記事へのコメント

ぽいふる
2020年09月17日 03:36
電通にお金渡して世論操作

前の首相から次の首相へ

またも

チヂウリ


大阪市が危ない


お笑いで
お笑いの人

選んできたこの風土も

チヂウリ


コロナの人も

他の近畿の県より多くて

イソジンや雨合羽で対処

ほら


近所からの物笑いの種になるのが

また

チヂウリ

してたら


市民生活は

売り払われ

権限が
奪われて

万博企業に
カジノ業者に

注ぎ込まれる


わろてる場合では

ないで

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